岩万燈復活・古泉栄治

岩万燈の今昔

亀田木遣り岩万燈保存会 初代会長
古泉栄治

 

この寄稿は岩万燈の復活の翌年(昭和56年)に編纂された

                   冊子に掲載されたものです

 亀田木遣りと岩万燈の始まりは徳川時代からとも聞くが、形に残る記録は少ない。大正時代の子供のころの楽しかった遠い思い出だけが残って、あの気合のこもった熱狂的な押し合いの場面が鮮やかである。

 東、西船場(ふなば)、下町、東片原(かたはら)、稲葉など、町内毎に岩万燈と先太鼓がくり出され、勢いよく諏訪神社へ宮のぼりを終えたのち、御神酒を頂き町通りをねり歩くのだが、その途中に出合った岩万燈と岩万燈で押し合いが始まる。
 ワッショイワッショイの掛け声で、押し合いゆすり合い、勝敗がはっきりするまで徹底的にもみ合い、下敷きになったり、押し込められて動けなくなった方が負けである。耳をつん裂くばかりの掛け声、叫び声は遂に喧嘩になることも珍しくなかった。 子供心には、巨大な怪物の斗いでも見るような、興味と恐ろしさで手に汗にぎって見ていたものだった。

 若者達が汗と埃りにまみれて、全身の力をふり絞り、気勢と怒声をはり 上げて押し合う様は、すさまじいまでに勇壮である。
 当時の若者達が、日頃の喜びも悲しみも、恋情も憤満も、こもごもな心情をこめた雄たけびであったのであろうか。

 

 大正が昭和に変り、軍国日本が次第に色濃くなると、岩万燈の灯も昭和七年を最後に、消えなければならない運命になった。そして戦争、敗戦、復興期、更に高度成長を遂げた最近まで、亀田木遣り音頭を聞くことも、ましてや、飾り物でない生きた岩万燈を見られることもなく、空白の幾十年が過ぎた。

 やがて亀田バイパスも竣功し、本町通りの交通止めができる時がきた。商工会議所の青年部と立川副会頭が中心となった発案で、亀田の貴重な伝統、誇るべき若者の祭典である岩万燈の押し合いを、ぜひとも復活しよう という声が高まった。その熱意は遂に諸々の悪条件を克服して、昭和七年よりの中断が四十三年ぶりの再現をみたのであった。あれからもう今年で七年目を迎えている。 晩夏の夜の秋祭り、元気な若者達の木遣り音頭と岩万燈の押し合いが、また楽しめることであろう。

 神社に奉納する燈籠は全国に多いが、一本足の杉の心棒に乗った木枠組の上に、竹と木で大岩を作って和紙を張り、神事にふさわしい神話の人物や動物の人形を飾った豪壮な燈籠は他には見られない。気合いの中にも哀愁のこもる木遣り音頭がぴったり調和して、押し合い、ひし合い、汗と怒号が交錯する岩万燈こそ、亀田の昔を語り、今なお亀田は健在なり、と心意気を行動に示している。


 亀田に生活する総ての人達は、亀田の誇りとして、この情緒と郷土色豊かな行事を、亀田がある限り将来も永久に岩万燈の灯を消してはなるまい。心の灯であるから。