岩万燈の歴史

 亀田の諏訪大明神社は、中谷地新田に慶安四(辛卯)年(1651年 三代将軍德川家光の時代)、長野県の諏訪上社祭神建御名方命(たけみなかのみこと)を農耕、狩猟、武勇の神として勧請し、諏訪下社祭神八坂刀売命(やさかとめのみこと)に水防を祈って鎮守とした。

 下って寛文四(甲辰)年(1664年) 肝煎村木七右衛門(きもいり)が五穀豊穣を願って、三重県伊勢の豊受大神宮祭神 豊受大御神(とようけおおみかみ・豊受毘売神(とようけひめかみ))を神明宮として奉斉した。 学問の神様、慈雨を恵み農業を護る神として、京都府北野天満宮祭神天満天神管原道真公を祀り、香川県の金刀比羅宮祭神大物主神を、水上交通と福徳の守護神として奉祀した。この三社を摂社として、諏訪神社の境内に小石祠を建立した。

 村人たちは、八月十五日伊勢の豊受大神を居浦に迎え、諏訪宮境内に奉斉した。翌五年八月十四日、昨年の賑わい忘れ難く、夜に入り伊勢の海原の石に神霊を鎮めて岩座(いわくら)とし、灯明を掲げ、掛け声も高く、再び居浦より諏訪神社境内に入り祭を行った。その賑わい盛んにして、岩座に準えた岩万燈は数を増して四組になった。
 各組は競って組の力を神霊に捧げるので、百姓、船頭、町人の力の競合となり、こうした岩万燈の結集力は、村落の治水、開墾の重大な原動力となった。


 祭典の時の神幸は、先導に伊勢獅子神楽がなり、御神輿の前後を提灯を掲げ、御神輿は二見が浦の大小の岩二個を据えて清浄地とし、次に御幣を立て豊受大神の御霊代(大日大龍権現)とした。 次に御神酒の樽を乗せた。御神輿は長方形の台に、二本の棒を通して肩に担くか手に持った。その後に、肝煎村木七右衛門を始め大勢の村人、町人が提灯を持って供奉した。
 長道中であるのと、先が神楽舞だから仲々進まない。漸く諏訪社に着けば、豊穣感謝の御神酒を頂き、空樽を打って踊りの気勢を上げ、一夜を徹した。御神輿も四組に定着し、二つの岩は二見が浦の形式の張り子に変り、次第に工夫されて現代の各種の構造に変遷したものと考えられる。


 亀田村の農商業も盛んになり、川筋の舟往来も繁く、舟旅の無事息災を祈って川筋の舟頭たちが、名主友三郎に請い、別当林性院が改めて、金刀比羅宮大物主命を奉請した。天明元(辛丑)年(1781年)三月九日、神霊代を居浦に迎え、二見ヶ浦の岩形を岩座とし、舟頭水夫たちは亀田木遣り歌も声高く、諏訪神社の境内へ祀った。これが岩万燈と木遣りの合体の 始まりだとしている。
 新発田藩の郡奉行中山杢兵衛の時、ここを町にと都市計画の事業が、元禄六(発酉)年(1693年 八代将軍綱吉。松尾芭蕉が死ぬ前年、七年後に水戸光圀が没す)から実行された。並譜の人夫たちが、谷地を整理のとき、亀を得たのを吉祥の相として、亀田町と名付くと古記に残っている。寛文の頃から世は大平となり、新田開発を進め、元禄の頃は最盛期を迎えていた。村人たちの団結力を強めるためには、年に一度の鎮守の祭は上下挙って、御神輿と岩万燈を木遣り音頭で熱狂したものであろう。

大正末期の岩万燈の押し合い


 この三葉の写真は、復活前の古い型の岩万燈で、稲葉の「鯉の滝のぼ り」と、東船場の「養老の滝」の押し合いといわれている。 ブリキ板を細 く切って下げた滝で、上へ登りついた大勢の船場衆が手足を切った年だという。
 骨組の上へ、八畳敷位の渋紙を被せて要所を止めた大ざっぱな構造で、 木組みも細く目方も軽るい。若い衆二十人で押せたというから、現在の岩万燈の半分位で、押し合いに敗けても一晩で復旧し、若い衆を増員して仇 討ちに目の色をかえ、素人相撲の横綱を呼び、相手側全員を片原掘に投げ こんだという。
 雁木が瓦屋根になっているが、石屋根の頃は、屋根石が投げられ、拍子木で撲り合い、鳶口(とびくち)という六尺棒で大乱闘もあったという。

古い写真には、白い夏制服に制帽の警察の旦那が、のんびりと見物しており、カンカン帽、パナマ帽、麦藁帽、菅笠、鉢巻きと多彩だが、押し合いに参加している若い衆は、全員鉢巻き、下着姿で観客とは区別されている。うだるように暑い八月下旬、日中から夜半まで、御神酒と炊き出しで頑張ったもの、精根尽き果て、惨敗した岩万燈をひきずって家へ帰るつらさ。カカアが餓鬼七人も抱えて「ほんねまあ、おめさんはいいろも、あしたのまんま、なんにもねえんぜね、どうさんね」、口をぱくさせた亭主、木遣りで喉をつぶして、ぐうとも、すうとも音が出ない。
貧しい生活でも祭りには鉄砲玉、下町気質を誇った船場衆、喧嘩早くって威勢もいいが、船場衆の木遣りは船場節ともいわれ、奇妙に哀調を感じさせる奥行きの広さがある。一本調子の木遣りではなく、攻める時の激しい木遣り、勝って奢った時の助平木遣り、敗けて帰る物悲しい木遣り、亀田木遣り音頭が生活に根づいた、下町の詩情なのだろうか。

 昭和の初期は、今の子供達には想像も出来ない、子沢山の口減らしで、男の子は丁稚奉公、女の子は子守りや飯炊きに出された。貧しい生活を背景にした時代の祭りであり、現代の若者達が想像するほど格好良いものでなかったかも知れない。
 押し合いが始まれば、何が何でも敗けられない。ぶざまな敗け方は、町内の恥となって後々までの語り草となる。岩万燈の中へもぐりこんでい根取り衆の撲り合いは、一般の観衆に見えぬところで壮烈を極める。相手の根取りを叩きのばして、根を浮かして岩万燈をひっくり返せば勝となるからだ。 敗色濃くなると、木格子組に隠し結んでいた六尺棒をはずしてふり回す。 優勢な岩万燈は一気に押しひしいで、相手の岩万燈をつぶしにかかると、敗けている方も勝っている方も登りついて大乱闘となる。渋紙を破って足を落した中には、竹槍が並んでいる凄まじい仕掛けもあったという。
 岩万燈の心棒がアスファルトに接する先端は、ゴムタイヤを巻いて路面 を損傷しないように今は配慮しているが、昔は先端を尖らせて土にめりこませ、心の回転に安定度を与えていたという。

 

 長い梅雨に出水、見渡す限りの田圃も泥沼に沈み、作が流れた夏は意気消沈し、岩万燈もなくさびしい祭りも多かったが、稲が順調に育っている年には、旦那衆の寄附もはずんで大いに気勢も挙り、各町内毎に御先太鼓に岩万燈を繰り出し、長竹に造花をたれさげた「花纏(はなまとい)」も行列に加わり、 今年の祭りは大したもんだと讃え合い、豊年への希望をこめて年一回の祭りを楽しんだものであった。
 どんな凄い喧嘩になっても、死者の記録はない。町の開拓期に苦しかった生活の中でも驚くべきほど治安がゆきとどき、血生ぐさい事件が無かった町史を読む度に、現代を裏返しにした、物質には貧しかったけれど、平和な明け暮れの細やかな生活がしのばれよう。
それにしても、あまりにも現世は騒がしすぎる。 ストレス解消に祭りは必要行事である。


屏風と亀田祭り


 家宝としておく屏風の披露が、亀田祭りの添景であったことを、今は知る人も少なくなった。 本町通りの商家は、棚類と商品を後方へ片づけ、店先に朱毛氈を敷き、後に武者絵や山水の文人画や墨跡などの六折屏風を背景として主人は坐り、住みこみの番頭、小僧たちは、お祭りの解放感で、 朝から縁台将棋などに興じて御神輿の神幸には、道路の牛馬の糞など取り除き、清め砂を点々とおき、 御先太鼓の笛や太鼓が連続してくる頃、主人は羽織袴で威儀を正し、清めた机に三宝を上げお初穂、お神酒、白米を供え、家族全員を従えてお祓いを受けていた。紅白の横幕は何軒か共通の長さで、紫房の紐で、正面をたくし上げ、竹簾も巻き上げて御神輿を迎えた。
 白装束で御神輿を肩にした白丁(はくちょう)、お稚児様のあでやかさ、五色のぼり、 神官烏帽子、年番の羽織袴の行列が続く。暑い真夏に扇子をバタバタ動か しながら、ゾロゾロ歩いて行く姿が思い出される。

 

「軒花(のきはな)」と「花纏(はなまとい)」


 祭りに軒花で通路を飾りたてる風習は、あちこちの祭礼で今でも見られる。亀田では昭和初期の岩万燈と共に姿を消したが、商店街では季節の変わり目や、商品の売出しに復活しているのは興味ぶかい。
 花纏の製作は、十二尺以上の青竹の頂上に大傘の骨を開かせて取付骨を造花で飾ったその下に、割竹に造花を多くつけた枝垂れを下げ、手に支える高さに杉垂木で十字を組み、根取り桁で心棒を安定させ、五、六人の若い衆で押し出したという。
この花纏は、長雨で作が流れた不景気の祭りで、岩万燈が出せない年に、 何とか祭りをしたい若い衆の苦肉な代替品で、一つの町内から二つも出した事があるという。