岩万燈復活・立川 重衛

岩万燈の起源と亀田木遣り音頭

立川 重衛

 

この寄稿は岩万燈の復活の翌年(昭和56年)に編纂された

                   冊子に掲載されたものです

亀田諏訪社秋季祭礼の夕べ、二台の大岩万燈が、本町通りで豪壮に立ち上り、両方が激突する形態は、他に類のない独創的な構造から、迫力溢れる押し合いを展開するが、どんな発想からこの岩万燈が生れたのだろうか。
 一本足の杉丸太に木格子枠を組み、その上に竹と紙で頭でっかちな大岩を作り、神話や物語りの名場面の人形などを作って、正面を飾りたてるが、裏面は垂直の二重格子に張紙だけだ。上下、表裏が不均衡な形である。
 古老の断片的なかすかな記憶を辿って、幻の大岩万燈を、四十三年振りに復活させた亀田商工会議所青年部の、三年間に亘る製作意欲と苦心努力は、郷土の伝統文化への憧れと誇りが支えとなった。
 不均衡を通り越して、不格好とも見えた大岩万燈の製作途中、どうなることかと心配していた青年部の全員が、押し合いに参加してみて、岩万燈の昔からの形態の妙に驚き、押し合いを重ねる度に、段々と発揮してくる構造の巧みさに、ただ驚嘆するばかりである。
 格子を路面に低い姿勢の岩万燈が、木遣りに合せて立ち上った時、高さ大きさ勇ましさ、二台の岩万燈が格子を合せて激突した時、観衆の頭上で一つの大岩がもみ合い、均衡した本来の形となり、木組に衆力が集中し、大岩は宙に浮き、押された万燈が雁木に衝突しても、竹の弾力で弾んで損傷は少ない。
 「よくぞまあ、われの祖先は、こんなにも素晴しい伝統文化を今に遺してくれたものだ」と。伝承復活のできた喜びは、何ものにも替え難い貴重なものとなった。
 

(岩万燈の歴史について中略 この部分は「岩万燈の歴史」に掲載)

 

 亀田の岩万燈が昭和七年を最後に、43年間も断絶していた時、袋津の伊夜日子神社に奉納する燈籠押しは、毎年7月14日、15日に熱狂的な若い衆たちで押し合いが行われ、亀田木遣り音頭が消える事なく伝承していた袋津祭りの意義は大きい。


 亀田木遣り音頭は、伊勢神宮の遷宮の際に厖大な木曾檜を運搬する木挽き唄といわれ、重い木材を挽くのに大勢の力を、調子を合わせて集中させる木挽き音頭で、五穀豊穣を願う村人の伊勢神宮への崇拝心から伝えられ、舟便の往来で活気溢れた船場衆が、重い物を運ぶ時の労働の唄として定着させ、亀田諏訪社の秋祭りに、岩万燈の宮上りの時に唄われるようになって二百年といわれている。
 木遣り音頭で、勢子が力を集中させる囃子の掛け声は「いや永遠(とこしえ)に良い世だよ」が、ヤートコセーヨイヤラナーで「現神何処(あらがみどこへ)へ、良い所へ良い所 へ」が、アリャリャガ、ドッコイ、ヨーイトコ、ヨーイトコナーだという。囃子の掛け声が、威勢よく揃った時には、重い物でも軽るく上がるが不揃えの時には怪我人が出る。音頭取りが自慢の喉で、朗々と唄う節廻しを勢子に聞かせる「間」と、状況に合せた調子の遅速が、音頭取りの巧拙となって、一つの集団を生かしたり、だめにしたりする大切な役で、誰れでもやれるものではない。押し合い前の逼迫した木遣りより、陽盛りの暑い一日、労働で汗を流しながら唄う木遣りにこそ、本来の味があるのである。

 

 岩万燈の復活を決定し、三分の一縮尺模型が造られる前年、昭和48年8月、第六十回の伊勢神宮の遷宮行事に、バス六台で亀田講中三百名が参加し「白石ひき」には、故古野間久衛さんを音頭取りに、亀田木遣り音頭の大合唱で、伊勢の狭い街中をねり歩き、伊勢の古老達を大感動させ、御祝儀が宿舎に数多く寄せられた記憶も新しい。この時に驚き感激したのは、伊勢の人達ばかりでなく、亀田講中の興奮ぶりも凄く、伊勢で亀田木遣り音頭が、正調に近い評価を得た喜びと自信にわき立ち、長い年月を経て旧知に出会った木遣り音頭の掛声に、伊勢神宮豊受大神を居浦に迎えた、320年前の亀田開拓史に想いをはせたのか、涙ぐむ古老も多かったという。
 正調木遣りであったかどうかは別として、伊勢の人達が忘れかけた木遣りを、忽然と唄いながら行く集団に、唖然とし、蘇った古き良き時代に我を忘れて駆けつけたのではなかろうか。


 故郷に誇りを持てる人間を育てるのが、教育の基本であると、亀田小学校の若い先生が岩万燈の取材に見えた時、我が意を得たり、と喜んだものの、何から説明したものか困ってしまい、最近のビデオテープや写真を見て貰うのが精一杯であった。兼ねてから製作予定であった此の小冊子を一日も早くまとめ、大勢の小学生に見てもらい、亀田の伝統文化を再現した岩万燈への理解と、将来の参加を期待し、われらが故郷、亀田を愛し誇りとし、心温かい人間に育つよう願いたい。
 まだ伝承されていない御先太鼓と笛は、残りも数少ない老人達によってかろうじて形を保ってはいるが、横笛の節まわしや、太鼓の打ち方にも往年のリズムが失われ、心細い状態となっているが、ここは音楽的なリズム感の優れている若い現代子の出番である。これからは、岩万燈保存会の総力を挙げて、笛と太鼓の伝承復活に取り組まねばならぬ時で、町の子供達へ熱いまなざしの昨今である。
 町の古老達が語り伝えた岩万燈への郷愁を今こ、に再現し、むづかしいとされていた亀田木遣り音頭も、島見浜合宿訓練を機にまたたく間に修得、二十数名の音頭取りが育ち、若者の力に満ちた木遣り音頭は、それぐの 個性溢れる節まわしで唄われるようになり、ようやく大岩万燈と亀田木遣り音頭に自信がついた今を、一つの区切りとして記録を纏め、大勢の人々により広く理解を得て、伝統文化の保存と定着に努力していきたいと思う。